今日は「よい夫婦の日」らしいです。
あれ?「いい夫婦の日」って11月22日じゃ?!みたいな感じもあるし、あんまり根付いてないような感じは否めないけれど、まぁそれは置いといて
夫婦、のみならず家族との関係を考えさせられる大きなきっかけに「病気になる」ということがあると思います。
治療が奏功して、命に関わることがなくても病気はやはり生き方や命について考えることは少なからずあるんじゃないか、と感じます。
さて、そんなところから今日は少し哲学的な話。
フランスの哲学者であるジャンケレヴィッチが提唱した「人称と死」という考え方があります。
(この人がジャンケレヴィッチ。学生時代に手に取った本は私には難解で全然読み進められなかった・・・)
人称といえば、なんとなく英文法でおなじみのという感じがありますが、死は立場によって感じ方が大きく変わるという概念のことです。
一人称の死 自分の死
二人称の死 あなた(愛するもの)の死
三人称の死 人(誰か)の死
となるわけですが、一人称の死というのは味わうことができるのかできないのか、これまた丹波哲郎的な死後の世界みたいなものになってくるので、人生の中で出会う「死」は二人称か三人称の死(医療者は2.5人称の死と出会うことが多いとされていますが、例えば同病者の死などもそうだろうと感じます)に分けることができるという考えです。
配偶者、家族、愛する者の死である二人称の死を体験することで、人は一人称の死を意識することができるものだと言われています。
愛する「あなた」の死というものが、「わたし」にとっても「死」を現実のものと感じさせ
さらに「わたし」の死は「あなた」との別れでもあるという意味でも二人称というのはとても大切なものだと言えます。
病気や死を考える時、身近に「あなた」と呼べる二人称の存在がいることの重要性を感じるのはこのような概念があってのことです。
よく「家族のために頑張ります」「子供たちのためにもちゃんと治したい」という言葉を耳にします。
これはまさしく「あなた」がいるからこそ。
「あなた」がいる、というのはとても幸せなことなんだと感じます。
(愛する人を悲しませるのは辛いという思いもありますが、、、言葉ではうまく説明できないけど、やっぱり二人称の関係は人生において重要だと私は感じます)
よい夫婦にこじつけて、人称の死について。
愛する人からの愛は(気がつかないくらいの小さな、当たり前のことも含めて)上手に受け取って、感謝を伝えることを忘れずに。
よい夫婦、よい家族、よい友人、「あなた」と呼べる関係性に感謝したいと改めて感じるのでした。