いろいろと考えなくてはならないことがあって、行き着いたところはダライ・ラマ法王のスピーチ。
娘を亡くしてから毎日お線香をあげて手を合わせているけれど、神仏に対しての理解は深くない。
職業柄、人の死に立ち会う経験も多く感じることもあったけれど、霊的な力があるわけでもない。
患者さん達が幸せに生きるためにできること、を模索しているのだけれど、その根源にはやはり「思いやり」があるんだと思う。
これがないとはじまらない。
どんな状況にある、どんな人であっても、皆、思いやりを持って尊重されるべき存在である。
他の誰と比べるものでもなく、みんなが「特別」でそして「普遍的」であると思う。
資源には限りがあるから、システムを開発することもとても大切である一方で、精神を育てることもやはり大切。
患者支援においてもやはりそうで、たくさんの悩んでいる患者さん達を救うためには両方が必要なんだと思う。
コスパみたいなものを考えるとどっちがいいのかなーと思うんだけど(評価の仕方にもよると思いますが)、システムを使うとしても使う人たちが心を開いて、思いやりを持って使わないと患者さん達は救われない(救われにくい)のではないかと思ったり。
少し前のスピーチだけれど、
思いやりと個人 “COMPASSION AND THE INDIVIDUAL”を一部抜粋
(時間がある方は是非読んでみてくださいhttp://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/compassion_and_individual.html)
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人が病気になり入院し、あたたかい人間味溢れる医師に治療を受ければ、病人は安心し最善の看護をしてあげたいという医師の思いは、その医師の技量に関係なく、その思い自体が治療行為となるでしょう。一方、医師が人間的感情に欠け、冷淡でいらいらした投げやりな態度を示すなら、たとえその医師が高く評価され、正しい診断を下し、適切な薬を処方していたとしても、人は不安を感じるでしょう。そして、ひいては治療の内容、完全度に微妙な影響を与えることになるかもしれません。
日常的会話でも人が人間味溢れる話し方をしていれば、聴いて快く、また気持ちよく反応できるでしょう。話題がどんな些細なことであろうとも、会話全体が生き生きと興味のあるものになるものです。その反面、人が詰めた乱暴な言葉で話せば、私たちは落ち着かなくなり早く打ち切って欲しいと感じるでしょう。どんなつまらないことでも重要な事柄であっても、他者の好意や敬意というものが私たちの幸せにとっては欠かせないのです。
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思いやり、他者への好意や敬意。
誰かと向き合う時にいつも胸においておくこと。
その昔、「患者さんのことを大切に思うこと。それができないなら看護師辞めなさい」と看護師一年目の私に言ってくれた師長さんに感謝しています。
当たり前のことなのに、忙しいと忘れてしまうこと。
幸せとか、安心とか、数量化しにくいものを実証するのは難しいけれど、治療が奏功しても安心して暮らせなかったら、幸せと感じることが少なかったら、それは寂しいので、なんとか考えてサポートの力にしたいと思っているのです。
頑張ります。